ドーハの悲劇から30年 ラモス瑠偉の姿を語り継ぐ VINTAGE CULTURE BASE / FOOTBALL COLLECTION

2023.09.10

「ドーハの悲劇」とは

日本サッカー史上で、「ドーハの悲劇」と語り継がれている伝説があります。

1993年10月28日カタール・ドーハ。

アメリカで開催されるワールドカップの出場をかけたアジア最終予選。

日本サッカーの悲願であったワールドカップ初出場まで残り十数秒……。

その後に日本国民が目にした光景は「ドーハの悲劇」と呼ばれています。

 

サッカーの弱小国・日本 1989年

1989年、翌年にイタリアで開催されるワールドカップのアジア予選は1次予選で敗退。1968年に開催されたメキシコシティ五輪以降、国際舞台で活躍する事が出来ていない日本。南米、欧州、アフリカ、北中米カリブ海、オセアニア、アジア。各大陸のレベルを考えると、アジア大陸は最下位のグループで、その中でも日本代表は苦戦を強いられていました。そのような日本サッカーの危機的状況を変えてくれる希望が、1989年に日本国籍を取得した読売クラブの司令塔・ラモス瑠偉氏。ブラジルの名将ジノ・サニ氏からブラジルのプロリーグでのプレーを勧められたにも関わらず、日本人の奥様が一人娘であることから、ブラジルに帰国せず、日本でプレーすることを選びます。日本でプレーをする上で、ラモス瑠偉氏にとって「自分の家族」である読売クラブへの恩返しをするために、日本国籍取得を決断。

ラモス瑠偉氏が日本国籍取得

ラモス瑠偉氏は1989年11月に日本国籍を取得します。ラモス瑠偉氏は、1990年9月のアジア競技大会北京大会で日本代表に初招集。1992年の日本プロサッカーリーグ・リーグカップや、1993年の日本プロサッカーリーグ開幕で日本サッカー界が盛り上がる中でラモス瑠偉氏は「日本代表が国際試合で不甲斐ない試合をすれば、これから始まるプロリーグがダメになってしまう」と考え、たくさんの犠牲を受け入れ、所属チームと日本代表チームの両方で、満身創痍となってもプレーを続けました。

日本サッカー奇跡の飛躍はラモス瑠偉氏の誇りと魂

「日本をワールドカップに連れて行く」という決意を心に刻み、弱小日本代表チームに自信、覚悟、責任、結束、愛国心、誇りを爆発的な情熱で植え付けました。さらに、日本代表ユニフォームに国旗を入れてもらうことを提案し「日本国民を代表」する自覚を、日本サッカー界に浸透させます。ラモス瑠偉氏が加わった日本代表は、海外チーム、外国籍選手に臆することなく自信を持って闘い続け、1992年8月に東アジア王者、11月にはアジア王者、さらに翌年には、アジア・アフリカ王者に駆け上がります。サッカー弱小国であった日本・日本サッカー奇跡の飛躍です。

ドーハの悲劇は「神様が与えた試練」

1993年10月28日 アメリカワールドカップ・アジア最終予選イラク代表との最終節。日本サッカーの悲願であったワールドカップ初出場まで残り十数秒……。その後に、日本国民が目にした光景が「ドーハの悲劇」です。ラモス瑠偉氏はドーハの悲劇を「神様が与えた試練」と表現しています。あの「ドーハの悲劇」から30年。神様が与えた試練を乗り越えた日本は、2002年に自国でワールドカップを開催。その後、ワールドカップに7大会連続出場、2大会連続4回目のベスト16。女子代表は、2011年ワールドカップ優勝。ビーチサッカーはワールドカップファイナリスト。フットサルもワールドカップに出場。男女サッカーのアンダー世代、オリンピックでも日本サッカーは確かな存在感を国際シーンに示せるようになりました。

ラモス瑠偉氏の姿が日本サッカー発展の象徴

今日も日本サッカー界は確かな成長を続けています。今後、さらなる成長を目指す中で、何かに迷い、歩むべき道を見失いそうな時は、ラモス瑠偉氏の姿から「ドーハの悲劇・神様が与えた試練」を思い出してほしい。サッカー弱小国の日本を「ワールドカップに連れて行く」と決意し、日本サッカー奇跡の飛躍を成し遂げ、打ち立てた目標を達成するために、最後まで必死に闘い抜いたラモス瑠偉氏の姿は、日本サッカー界の発展の「鍵」であり、シンボルとして語り継がれていくべき「伝説」です。

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フットボールクリエイター 角田壮監

足とシューズの最適化で競技者本来の力を引き出すという視点から世界初のサッカーソックスの構造を分離させ完成されたセパレートサッカーソックスLeg Tool Separation Systemを考案。

グローバルシーンで実績を残している様々な競技のトップアスリートや競技団体のマネジメントやディレクションで培った「競技力向上のための組織づくり」をはじめ、社会にスポーツが持つ有益な効果を生み出すためにスポーツシステムコーディネーター、スポーツプロデューサー、プロジェクトコンサルタントとして、次世代ニーズを見据えた魅力ある競技スポーツシーンの創出に努めている。現在、(公財)日本水泳連盟競技力向上コーチ委員会に所属。